|
菅茶山著 『遊藝日記』の旅を辿って
|
茶山は天明八年(1789)6月5日から7月6日まで(1カ月間)安藝国へ賴春水訪問と宮島管弦祭見学を主たる目的として弟子の藤井暮庵を道連れに旅行した。
これより1カ月程前、廣島藩儒賴春水が江戸勤番を終え西帰途中、神辺宿に茶山を訪ね、5月14日、広島藩邸に帰着している。その折、広島・宮島見物を勧めたものと思われる。
*** *** *** *** *** ***
6月朔日、出発予定が降り続く梅雨で先延ばしになり、5日、久方ぶりに晴れ間が覗いたのを好機に、従弟君直(菅波武十郎)と家を後にする。午後、福山へ。城下、大念寺歌会に出席、三更、散会。海道士の寺(木綿橋畔)に宿泊。
5日、玄道(大空遍照寺)上人、海道士、君直らが城下から芦田川まで見送ってくれた。先発、神村伊勢宮茶店で首を長くして待ちあぐねていた暮庵と合流した。そこから駕籠を雇って出発。久方ぶりに青空が覗く道沿いに綿畑が清々しく、そこかしこ天日干しの藺草が芳香を放っている。官道が所々水に漬かり、谷川や田畑の溝に水が溢れ、飛沫が音高く流れ落ちている。夜、尾道に到着。勝島敬仲の叔父の別荘(百島・加島園)で草鞋を脱ぐ。
6・7日両日宿泊、宮地世恭・世梯父子、草香孟慎(平田玉蘊 伯父)、亀山元助(通称 油屋)、島居子瑤(通称 炭屋)、福善寺円識上人、裕照上人など地元の雅人や弟子たちと交流。
8日、吉和七曲り濱まで勝島敬仲、宮地世恭、灰傳(?)らに見送られ尾道を後にした。
直ぐ眼前に広がる海に浮かぶ大小様々な島、うっすらと背景を彩る伊予の山脈にみとれながら糸崎へ。三原で勝島の下僕を帰らせ、西野梅林を見学した。
嘗て(明和八年・1771年初春)西山拙齋と訪れた想い出の地。2月「花時香雪十余里」の装いとは一変、樹林は「今望之緑葉陰々」、天日干しの梅の甘酸っぱい匂いが鼻を擽る。
三原以西は事実上未踏の旅路。本郷から駕籠で夜道を行く。道すがら、夥しい螢の群れが幻想的な光の演舞。時折、闇を劈くように水鶏の鳴声が聞こえる。新庄村の百姓家に宿泊した。終夜、枕辺近く増水で澗流が奏でる水音が耳について眠れない。
9日、西条に至る。往々、諸処、堤防が決壊。土方衆が土砂を積んだ車を曳いて復旧工事に当っている。長雨のため、田植えが遅れたのだろう。「秋前始挿秧」の真最中。藝洲の田植え歌を聴く。吾が備後の音節と頗る異なっている。
夜、海田で宿泊。近駅の諸村では牡蠣を養殖している。牡蠣筏が田圃のように海面に広がっている。
10日、広島城下に入った。真っ直ぐ、磋工街(研屋町)の頼春水藩邸を訪ねる。春水は藩の学問所に出かけて不在。杏坪と山陽に出迎えられる。山陽9歳とは初対面。暫くして春水が帰宅。家族総ぐるみの歓迎を受ける。
|
広島城 広島城 yahooより |
廣島訪賴千秋分得螢字 菅茶山
離居屈手幾秋螢 離居 手を屈すれば 幾秋螢ぞ
夜雨西窻酒満缾 夜雨 西窻(窓)酒は缾(瓶)に満つ
十載趨朝頭未白 十載(年) 朝に趨(赴)きて 頭 未だ白からず
擧家迎客眼俱青 家を擧げて 客を迎え 眼 俱(皆)青し
雲低隣屋木陰邃 雲は隣屋に低(垂)れ木陰邃(深)く
石倚勾欄苔気馨 石は勾欄に倚りて苔気馨し
喜見符郎耽紙筆 喜び見る符郎(山陽)紙筆に耽り
童儀不倦侍書櫺 童儀して 倦まず 書櫺に侍するを
夏六月十日 菅禮卿携藤井士晦至 有詩次韻志喜
頼 春水
庭陰既夜見流螢 庭陰 既に夜にして流螢を見る
懐抱相傾酒幾缾 懐抱 相傾けて 酒幾缾(瓶)
投我詩嚢新紫翠 我に投ず 詩嚢の新紫翠(山水の風景詩)
示君齋壁古丹青 君に示す 齋壁の古丹青(古い水彩画)
燈前細雨鳴蛙近 燈前 細雨 鳴蛙近く
檐角軽颸穉竹馨 檐角 軽颸(涼風) 穉竹(若竹)馨る
自喜三年佌離後 自ら喜ぶ 三年 佌離の後
山林舊話對窓櫺 山林 舊話 窓櫺に對するを |
11・12両日、雨天で外出せず、春水宅に宿泊。山陽は「利発にして戯弄を好まない。客を喜び、侍座して終日倦むことがない。林子平の「三国通覧図説」や「道見魚石」(高麗の紅魚化石)を見せてくれた。詩や書画を学んでいる。どれも見所がある。心ばかりに藤紙1本を贈る。
13日、春水宅を辞し、蒼頭(下僕)の案内で城下の名所めぐり。国泰寺、白神祠、鯉城周辺、東照宮、櫻馬場・猿猴橋・京橋を経て、宿「かしのや」へ。夜、杏坪が来訪。酒を酌み交わしながら談笑中、突然、話も通じないほどの大雷迅雨に吃驚仰天。
14~16日、雨天が続き、春水、杏坪兄弟とともに、春水宅と宿を交互、気儘に行ったり来たりして過ごす。16日には、宮島見物にやって来た従弟惟常と神辺の忠二が家書を携え宿へ訪ねて来た。連日、宿の主人が酒茶、魚鮓の饗応。食傷気味。
17日 待っていた管弦祭当日。宿から地御前へ。道中、「垂髫誰家子 累騎老豕行」、童子が豚の背に乗っている愉快な光景に出くわした。連日の雨で、民家が壊れ泥濘に埋まり、崖崩れで道が壊れ塞がれている箇所もある。
串戸で二軒、長大な建物を見た。米に代わる賦課として山村から積み出された木炭置場。ここから大阪へ船出するのだ と土地の人が説明してくれた。 |
舟を頼んで、宮島に渡る。海中にあった大鳥居が雷で焼け、未だ修建されていない。管弦祭を見て、宮島で宿を取る。
(現在の大鳥居は平安時代から数えて8代目。明治八年(1875)再建。海中に置かれているだけ。自重(約60屯)で立っている。)
18日 厳島神社参詣。暮庵は弥山山頂を窮めたが、自分は麓で暮庵の下山を待っていた。ふと「(宝暦四年・1752年)7歳の時、祖父九次郎包貴と母にこの宮島に連れて来られた往時を追憶、あれから30年、母は垂白(白髪)。自分も二毛(白髪交じり)。我知らず涙腺が緩む。
|
19日、雨のため岩国錦帯橋行を断念、広島に帰り賴家を訪ね、無事、帰着したことを報告、宿に落ち着いた。春水が下僕を遣わし「労行問疾」(旅を労い、体調は大丈夫かと尋ねさせた。夜、こちらから春水宅を訪問。
20日、元安橋多賀庵の水楼で送別宴。春水、杏坪、林堅良(賴家かかりつけ医)、藤季明(藤原春閣弟)、多賀庵六合(俳諧師)が参席。久太郎(山陽)も同席。大人の傍らで退屈もせず作書及画に耽っている。深更まで盛宴が続いた。
21日、早めに宿を出て、春水宅に別れの挨拶に。春水の書は全国で有名で、自分が請託を受けている者、数10人。20余帖の揮毫が終るのを待って、留談をしていたら、日没。強留され、到々、もう1泊することになった。
22日、早朝、春水に告別。春水は季明と猿猴橋まで、杏坪は下僕に命じて、海田駅まで見送って呉れた。西条で宿泊。胡乱な僧に警戒するまま、睡眠不足。
23日、仏暁、宿を後にする。噂に聞く(東広島市安芸津町)三津・岩伏山中の「呼石・呼岩」を是非訪ねて見たいと駕籠を頼んで、三永の藤原春閣を訪れ、案内を頼んた。
呼石は高さ8.5㍍、幅14㍍の花崗岩、谷を隔てた「喚応所」銘のある碑から岩に向かって叫ぶと谺が返って来る。3人(茶山、暮庵、春閣)が代わる代わる呼ぶと人が話すように谺が返って来る。
備中横谷の響石、伊勢の鸚鵡石、石洲の響石は、発した声と返る聲が重なって聞こえるが、呼石は返って来る声が明瞭で別人が声を発しているようで、なかなか得難い。
呼石嶺から遙か南に臨む海には大小の島々が横たわり、伊予の群峰には夏雲が架かっている。ふつふつと興趣が湧き、我知らず不得手な絵筆を握った。暮庵が用紙を抑えて呉れたが、「どうも風が邪魔して、見たまま、感じたままに上手く描けない。」の感想に暮庵がにやり。この日、春閣宅に宿泊。
24日、隣村から逃散、全村民が一家族という二賀山中の村を通り抜ける時には、村人たち総出でもの珍しげに、否、闖入者と怪しまれてか竹原へ。官道の海沿い一帯、塩田が極めて夥しい。竹原で賴春風を訪ねた。春風(千齢)は春水(千秋)の弟、杏坪(千琪)の兄。(安永二年(1773)遊学先の大坂から竹原に帰り、賴家の後を継ぎ、医業を開業、のちに塩田経営、郷塾「竹原書院」を創始)。初対面にも拘わらず、まるで旧知の間柄のようだ。妙に馬が合い、ご馳走と美酒で夜の更けるのも忘れて歓談。
(文政七年、茶山は春風の別邸「留春居」新築を祝い、「寄題賴千鈴留春居」を贈っている。三人兄弟のうち、宮仕えをしていない春風の自由な境遇に共感しているように思える。)
25日、竹原賴家の菩提寺照蓮寺を訪ねる。詩友片雲上人(府中明浄寺出身)は不在だったが、先代獅絃上人や酒僧超倫(詩書に秀でた酒豪僧として知名度が高い)が応対。
寺は絶壁を背負い、生い茂った樹木が蔽い、庭池に影を落としている。池には赤鯉が数十匹、人が近づいても畏れない。手を拍つと我先に集まって來る。酒僧超倫が餌を数枚投げ入れると、争って食らう。1枚を犬が岸辺から掠っても驚散もしない。
26日、午後竹原を発ち、本郷へ。尾梨坂での別れ際、春風が道祖神前に筵を敷き、旅の安全を祈り、送別の宴を開いてくれた。
暗くなって官道沿いの沼田川に達した。燭を灯して川を渡っている人がいる。大丈夫と踏んで、徒渉中、深水に蹌踉めいて危うく倒れそうになった。幸い暮庵に助けられ、大事には至らなかった。衣服や所持品、大事な詩囊までがびしょ濡れになり、本郷の宿で乾かしてもらった。「官道に臨む川に藩が渡し舟を置いていないのは何事か」怪しからん。
27日、宿の主人の案内で、今度は無事、川を渡り、米山寺を訪問。小早川隆景」の肖像及び手書、折簡などを見せてもらい、「米山寺拝謁小早川中納言隆景肖像」。隆景の文武両面にわたる功績を賞賛する詩を詠んだ。(現在、寺の向いの小早川家墓所入口に、その詩碑が建立されている。)
次の三原では、野畑山の中腹にある無量山明正寺を訪ねた。三原城主の菩提寺、日蓮宗の名刹である。最初、延宝二年(1674)三原城主三代浅野忠眞が米田山山麓に開創したが、官道から見下ろされる立地を避け、享保九年、四代忠義が現在地に移した。寺は海を臨む景勝地にあり、郡務を掌る宇都宮士龍が藩命によって全国の著名な詩人からこの寺と三原のことを詠んだ詩「妙正寺詩巻」を集めていることで有名である。
城下街から絲崎に出て酒を酌み交わした。近くの港では、舟引と称する笠岡、玉島などへ行く船の案内や天草の商船の来往を送迎することを生業とする男衆を見かけた。
夜、尾道に着き、亀山元助宅を訪れ、7月5日まで8日間滞在。その間、1日、暮庵は先に帰る。4日に、有志に「大学」章句を講義。その後、千光寺へ登った他は、亀山宅で昼夜の別無く、訪れる人々と文雅の交流を重ねた。
6日、勝島敬仲、宮地世恭・世悌父子、亀山元助、豊田子伝らに見送られ尾道を後に、神辺へ帰った。勝島が赤坂までは下僕に見送らせてくれた。 著者 上泰二 |
|